学部1年の頃にゼミで提出したタームレポートの内容が、 オープンガバメントに関係するので、ここで共有しておく。
Openだけでなく、 Shareの概念の理解も重要だと感じて書いた内容だ。
ウェブの概念を統治機構に持ち込む “Open”, “Share”を手がかりに
目次 1. 情報社会の到来 ―梅棹忠夫の情報社会論― 2. オープンガバメントの夢 ―佐藤俊樹の技術決定論批判― 3. ウェブの概念はウェブの世界にとどまらない ―“Open”、“Share”の概念― 4. 行政のオープン化 ―オープンガバメントのコンセプト(1)― 5. 政治のオープン化 ―オープンガバメントのコンセプト(2)― 6. オープンガバメント時代の政府・世の中のつくり方 ―2つの壁― 7. 終わりに ―2つの統治機構改革―
1. 情報社会の到来 ―梅棹忠夫の情報社会論― パーソナル・コンピュータの概念を世に提唱したのは、コンピュータ・サイエンティストのアラン・ケイである。その時代、PCはどこかの「部屋」に「置く」のが当たり前だった。やがてPCは机の上に乗り(デスクトップ)、ポケットに入るようになり(モバイルPC)、いまでは掌(スマートホン)はおろか、PCは身に付けるものとなっている(ウェアラブルPC)。現在、人々はSNSやブラウザを通じて当たり前のようにインターネットに接続されている。インターネットは人々の生活のスタンダードを勝ち取りつつある。そう、世はまさに情報社会を迎えている。 しかしそもそも、情報社会とは何であろうか。人類は有史以来、いやそれよりも前から「情報」を使用してきたし、紙や活版印刷技術の発明は古代情報革命、近代情報革命をリードしてきたに間違いない12。それでもしかし、私たち現代人が一般に「情報社会」という語を用い、現実を語ったり、未来の希望をイメージしたりするときには、「インターネットのある社会」をイメージするだろう。本稿は、そのような「インターネットのある社会」、一般にいわれる情報社会を過去の文献を参考にしながら考察し、その上で”Open”、”Share”といったWeb由来の概念の現状把握を行いながら、情報社会の未来にまつ「政治のあり方・統治機構のあり方」について模索した文章である。 ところで、情報社会の到来を世界的に最も早く予見したのは日本人であることはあまり知られていない。梅棹忠夫3は、「情報産業論」と後の「情報の文明学」のなかで世界に先駆けて情報産業の存在を文明史のテーマとして扱った。梅棹曰く、人類の文明史は、農業革命を古代に迎え、近代では工業革命(産業革命)を迎えた。そしてこれからは情報産業が生まれ、情報革命を迎えるだろうと1960年代の時点で予見している。そこで、なぜ情報革命が起きると梅棹が予見しているかというと、文明史の発展は人間の欲望を満たす形で進んでいくという彼の仮説があるからある。農業革命は、人間の腹を満たすために起きた。工業革命は人間の肉体労働を助けるため、そして情報革命は人間の精神を癒すために生まれた。「空腹の充足→労働の充足→精神の充足」。なので、梅棹曰く、情報産業とは精神産業であるという。確かに、梅棹のいうとおりに現代は情報時代を迎えている。世界中を飛び回る情報通信量は有史以来のトラフィックを有し、地球の裏側の人とも光の速さでコミュニケーションをとることができる。世界のどこにいようと言語の壁さえ超えれば何の情報でも調べることができる。しかも、翻訳サービスの発達のおかげで言語の壁は消えつつあるともいわれる。情報技術は本当に社会を変えつつある、本当にそうだろうか。
2. オープンガバメントの夢 ―佐藤俊樹の技術決定論批判― 「テクノロジーが世の中の仕組みを変える」。そういった議論の流れを批判する人がいる。その代表が「社会は情報化の夢をみる」の著者、佐藤俊樹4である。確かに、情報技術の登場は新しいビジネス手段の発明をもたらし、人々に新しいニーズをもたらした。現在において、インターネットにつながらない環境に放置されることは苦痛で仕方がないという人は少なくない。しかし、かといって情報技術の登場は世の中の仕組みをどう変えたのか。地球の裏側の人とコミュニケーションがとれる。それが世界に何の影響を与えたのか。世界中のいかなる文献も読むことができるようになった。それが何か歴史を変えたのか。インターネットの登場のすべてを否定するわけではないが、「インターネットが政治を変える、社会を変える」という技術決定論的な言説は空想的なものが多いと感じる。 とくに、「インターネットが政治を変える」という言説で使われがちなのが「オープンガバメント」という言葉である。ネット選挙が可能になったからといって選挙の結果は大きく変わらなかった。その変化は微々たるものであった。「オープンガバメント」という言葉の使われ方は人によって異なる。再利用・再配布可能な形で情報公開をすることだという人もいれば、政治の議論に人々を参加させるための準備段階だという人もいる。これもウェブ2.0、クラウドと同じくバズワードである。しかしオープンガバメントとは何の意味もない空虚な言葉なのだろうか。 確かに、情報社会論は人々に空想に近い夢を考えさせている空虚な発想だ、という批判は一理あるかもしれない。しかしインターネットは現実を変えつつあるのも事実である。東日本大震災では、多くの物資が被災地に送られた。多くの応援の言葉が世界中から集まった。それを現実にしたのは間違いなくインターネットである。人々は、世界のどこかに困っている人がいるということを知った。それがどこにいる人かということがわかった上でだ。そしてその人達が何に困っているのかを知った。そして物資、応援の言葉、必要なものを送ることができた。インターネットの上に載せることのできない物理的なものであっても、送り先を決めることができれば郵送などインターネット以外の手段があった。人々はインターネットを使って、問題を認識し、解決策を考え、それを実行する術を手に入れていたのだ。これがインターネットのない時代だったらどうだろうか。個人が社会問題の解決に容易に関わることができる。それも、とても低いハードルで5。オープンガバメントのような「政治×インターネット」の提案には一縷の希望もないわけではない。では、具体的にどのような希望を抱くことができるのか。私たちは何を目指すことができるのか。
3. ウェブの概念はウェブの世界にとどまらない ―“Open”、“Share”の概念― ウェブの登場は世の中に新しい概念を発明している。それがオープンとシェアという概念である。オープンガバメントのオープンとは、単なる情報公開という意味を超え、ウェブ的なオープンという言葉の意味に即して使われることもある。シェアは国境や人種を超えたグローバルなつながりを想起させることもあれば、見知らぬ人同士がつながり何か生産的な成果を生み出すことも想起させる。そもそも、これら「”Open”、オープン」「”Share”、シェア」という概念にはどのような意味が込められているのか。それを知らずして、インターネットが起こすだろう社会の変化を読み解くことはできないし、オープンガバメントの言葉に夢を持たせることもできない。 ウェブ的なオープンとは、どのような意味か。一般には、ウェブ的オープンとは「あるものが再利用・再配布可能な形でインターネット上に存在していること」を意味する。つまり、誰であっても情報のコピペ(コピー&ペースト)、カスタマイズが可能ということだ。例えば、ウィキペディアの情報をコピペして、大学のレポートを書く。音声データをダウンロードして、少しいじくってみる。そうした二次創作の作品をYouTubeなどにアップロードする。これがウィキペディアの情報がオープンだからであるし、音声データがオープンに公開されていたからである。それらコンテンツがオープンであったから、私たちはコンテンツのシェアができている。オープンとは、インターネットを通じて誰にでもコンテンツが公開(再利用・再配布可能)されていることである。 一方、ウェブ的シェアとは複数人の間でコンテンツを共有することである。このシェアは2種類ある。ひとつは特定の集団・組織のなかでのみシェアをする方法である。大学のサークル内や何らかの企業のみでファイルを共有する方法などがこれに当たる。もう一方は、誰とでも(その存在を知っていれば)シェアできるようにする方法である。この方法はシェアの相手が誰でなくとも可能である点に特徴がある。一般にウェブ絡みでシェアといわれるときは、2つ目の考え方で扱われることが多い。ニュース記事のシェアなどがそれである。これは「拡散」という言葉で認識されることもある。 ウェブ的シェアは、対象となるコンテンツがウェブ的オープンになっているときにもっとも真価を発揮する。どういうことかというと、単に不特定多数にコンテンツを拡散(シェア)できるだけでなく、その二次利用を促すことでローカル化(ユーザの状況に合わせてコンテンツをカスタマイズすること)やリンク化(オリジナルと二次利用の間をリンクさせること)が可能になる。例えば、経済産業省の統計データをオープン化して公開する。すると、オープン化された統計情報から好きなようにデータを抜き取って、そのデータを基にグラフをつくったり、インフォグラフィックス化したりして見やすい形でデータを公開する。もともとはとても見にくい統計情報だったものを人々が直感的に分かる形で世の中に出回る。一次創作では「見にくい・使い勝手が悪」かったが、二次創作、三次創作とされることにより、より良いバージョンがつくられていく。そうしたものがシェアにより拡散的に広まる。 このようなオープンとシェアの考え方は、ウェブ上のみならず現実社会においてもひとつのムーブメントとして誕生しつつある。例えばくまモンの例がある6。熊本県のゆるキャラとして有名になったくまモンは熊本県の許諾さえ受ければ、熊本県の他の品のPRなどに自由に使うことができるのだ。最低限のルールさえ守っていれば、誰でも使える形になっている。そうすることでくまモンというゆるキャラは、大勢の人に使用されメディア露出の機会が増え、ヒットにつながった。くまモンそのもののデザインの良さもヒットの要因には関係するが、そのヒットには誰もが自由に使えるようにするという”オープン”的な思考が背景にある。
4. 行政のオープン化 ―オープンガバメントの社会像(1)― コンテンツがオープン化されることで、人々がシェアをできるようになる。シェアには単なる「拡散」の可能性だけでなく、「何かをつくること」をシェアする、「何かをチェックすること」をシェアする、「何かを発見すること」をシェアするという形もありうる。そのようなオープンとシェアの関係を活かした政治、行政のあり方、つまりオープンガバメントが形作るものとは、一体何なのだろうか。 「オープンガバメントが実現されたら…」。一体、どんな世の中になるのか。オープンガバメントの社会像は想像しにくい。では、現段階での具体例を考えながらオープンガバメントのもつビジョンについて考えよう。 2つの事例を紹介しよう。ひとつは”FixMyStreet”という千葉県千葉市の事例である(https://www.fixmystreet.jp/cities/12101)。道路を歩くと、落書きがあったり、標識が壊れていたり刷る。すぐさまに大きな事故が起きるとは限らないが、結局は修繕しなくてはいけない。千葉市では、そのような自治体の問題の発見に「市民のちから」を借りている。住民に落書きの現場や壊れた標識を見つけてもらったら、それをスマホで写真に撮って”FixMyStreet”にアップしてもらうのだ。そして自治体の職員がアップされた写真の中から優先順位をつけて順番に修繕していく。FixMyStreetは問題の発見に市民の力を借りるだけではない。自治体職員にアップされたすべての問題を解決することはできないので、住民がFixMyStreetを見て、勝手に落書きを消すということが起こっているのだ。これは問題発見の状態をオープン化することによって、問題解決を自治体、住民でシェアしている。 2つ目の事例は、オープンデータ・アプリの事例である。オープンデータ流通推進コンソーシアムでは、自治体のもつ情報をオープンデータという形で世の中に再利用・再配布可能な形で公開し、そのデータをもとに人々がアプリをつくる大会を主催している。例えば、まちにある電灯のデータから、夜になると暗くなる道とそうでない道を割り出す。その結果をマップ・アプリのようにして見られるようにする。そしてそのアプリのプログラムはオンライン上で誰でも見ることができ、勝手にコピーして自分の国・地域・まちにローカライズできるようにしておく(オープンソース化する)。これは政府、自治体の所有するデータを誰でも使えるようにオープンな形で公開し、自治体職員以外の人が、人々が事件に遭遇しないためのアプリをつくった事例である。これも同じく、あるものをオープン化することで、世の中の問題解決をシェアしているのだ。 「ある何かをオープン化し、世の中の問題解決をシェアする」。この形は新しいビジネスの形として成功しうるかもしれないし、新しいボランティアの形としても始まるかもしれない。私は地元の神奈川県横須賀市で、次のような実践をしている(https://mapsengine.google.com/map/edit?hl=ja&authuser=0&mid=zMHaw52CWC18.kVt7hwmlda9c)。このURLにアクセスをすると、横須賀市の公共施設(小中学校、庁舎、コミュニティ・センター、青少年会館などの分布をみることができる。今後、随時施設情報のアップロードを重ねていく予定でいる。この企画は何を目指しているかというと、学校、庁舎、貸出施設などの公共施設の適正再配置計画の議論の際に、住民参加型で施設の適正配置策を検討するときの資料として利用できるようにしていくために作成している。現在、横須賀市の市議会議員とタックを組み、このマップをいかに市民に知らせ、議論の題材としていくかを検討している。これはFixMyStreetに影響を受けて思いついたアイデアである。私が行っているのは「オープン化」の作業であって「問題解決のシェア」にまで行き着いてはいない。しかし、先ほどFixMyStreetで住民が行政の指示をなしに落書きの修繕を始めるといった事例は、落書きの情報がオープン化されているからできるボランティアである。他にも、あるデータやコンテンツがオープン化される。それによりソーシャルビジネスを展開しようとする人たちにとって、有益な情報提供ができる可能性がある。ソーシャルビジネス・ボランティアと、ガバメントのオープン化は「現状のオープン化」により、「問題解決をシェア」できるという意味で親和性が高い。そして、ソーシャルビジネスやボランティアが日常的に行われる世の中は、「公共的な世の中の役割を、行政だけでなくみんなでやっていく」という新しい公共の考えとも親和性が高い。つまり、「オープンガバメント→ソーシャルビジネス、ボランティア→新しい公共」という流れで、オープンガバメントは新しい社会像をつくるモデルとしても注目することができるのだ。
5. 政治のオープン化 ―オープンガバメントの社会像(2)― ある何かをオープン化することで、問題解決をシェアする。オープンガバメントのその仕組は、「行政のオープン化、シェアラブル化」だけでなく「政治のオープン化、シェアラブル化」にも通用する。 YouChoose(http://youchoose.esd.org.uk/redbridge2012)というサイトをイギリスのある自治体がつくった。これは自治体レベルでの予算の作成を「もしも私が市長だったら…」という形でデザインすることができるサイトである。例えば、医療費を増やせば、教育費に使える予算が減っていく、というようにデザインができる。このサイトのアイデアを受けて、日本では”Where does my money go?”というサイト(http://spending.jp/)がつくられた。YouChooseの画期的な点は、何にどれくらい予算を使うかという政治決定的な部分にオンラインでの参加を可能にした点である。東浩紀は著書、一般意志2.07の中で、データベースが熟議に抑制をかける仕組みとして機能するという提案を行っている。YouChooseはその提案を具体化したひとつの形である。他にも、アメリカ・ホワイトハウスの”We the People”(http://www.whitehouse.gov/petitions)では、30日以内に2万5千人の署名を集めた請願にホワイトハウスは必ず「対応」を示さねばならないということをやっている。これはオープンかといわれれば、何かのコンテンツやデータをオープンにしている訳ではないが、政策(=世の中の問題解決)をシェアしているという点では、「ポリシー・シェア」という言葉の方が近いかもしれない。例えば、We the Peopleと同じ仕組をホワイトハウスではなく、 全政党にして、選挙のひと月前から募集をし、全政党は条件をクリアした質問には必ず何らかの「対応」をしなければならない、ということを立法化してもいいかもしれない。
オープンガバメント時代の政府・世の中のつくり方 ―2つの壁― インターネットを使ったからといって、どんな時でも物事が劇的に良くなるとは限らない。「テクノロジーが世の中を変える!」という技術決定論には陥ってはならない。しかし、オープンガバメントには夢がない訳ではない。「ある何かをオープンにすることで、世の中の問題解決をシェアする」、オープンガバメント&ポリシー・シェアというアイデアの持つビジョンは「オープンガバメント→ソーシャルビジネス、ボランティア→新しい公共」という流れで新しい社会像を提案することができる。そしてオープンガバメントは、行政の分野では問題発見や問題解決のシェアを可能にし、政治の分野では政策デザインを可能にする。見逃せないのは、既にその実践は始まっているということである。テクノロジーを少しわかっていて、世の中のどの問題を解決しようという筋道を考えることのできる人間にはすぎに実践することができる。このように、オープンガバメントは単なる”空想”ではなく、立派な”構想”として実践可能である。 しかし、オープンガバメントはテクノロジーとソリューションのデザインができれば、誰にでもできるというのには、2つの渉外と1つの注意事項が存在する。第1の渉外は、行政の協力である。情報の公開は民主主義の理念からすれば歓迎すべきことであるが、どうも行政職員はあまり積極的でない。千葉市や鯖江市、横浜市など情報のオープン化、オープンデータに積極的な自治体は多くない。横須賀市の先ほどの施設マップは、紙に印刷された情報をPCでひとつずつ入力した。その作業はとても時間がかかる。情報のオープン化に手間がかかるのは、職員にとっても同じであり、これをボランティアで行える人材が必要なのかもしれない。第2の渉外は、具体的なアイデアを思いつくのが簡単ではないことである。何かをオープン化し、問題解決をシェアするというオープンガバメントは、理念としては魅力を感じるかもしれないがそれを実践するための具体的アイデアをつくるのは一晩でできるものではない。クリエイティブな発想と政策的な思考を同時に使わなくてはいけないような問題だ。その意味で、オープンガバメントのスピードは今後も遅々としたものかもしれない。そして、オープンガバメントの注意事項とはさきほどの技術決定論批判ではないが、オープンガバメントにより何もかもがよくなるのではないということである。政治や社会に積極的に参加しようという人は常に社会の少数派である。いつもは積極的でない人や多数の人の参加をつくることはできるかもしれないが、劇的に何かが変わるとは思わないことだ。オープンガバメントの具体的アイデアを思いついたとしても、これまで通りの政治、行政の仕組みに役割はなくならない。しかしオープンガバメントは、新しい公共の実現という社会モデルの構築には、絶対に不可欠になるであろう理念であることは間違いない。
終わりに ―2つの統治機構改革― 松井孝治研究会の2本柱は、官邸機能の強化や選挙制度の改革といった統治機構の改革と、新しい公共といった社会像の研究の2つである。私はこの2つの関係はパソコンの仕組みに似ているとよく考える。機材、ハードウェアがなければパソコンは動かないのと同じようにパソコンはアプリ、ソフトウェアなしにしても作動しない。パソコンでいうところのハードウェアは、統治においては政府の仕組みや、選挙の制度のことをいうのだろう。一方、ソフトウェアはその入れ物の中で動く人々の意識や文化、つまりは社会の理念や人々の価値観のようなものであるだろう。統治機構の改革はハード面から考えることも可能であるし、ソフト面からの研究も可能である。オープンガバメントはソフト面の研究のテーマになる。 しかし、この議論は二極化して考えるべきでもない。政治コミュニケーションを考えるときに、選挙というハードマターがあるように政治文化というソフトマターも存在する。ハードとソフトの理解は、単なる目安にすぎない。先ほど、2つの渉外ではオープンガバメントのハード的な課題とソフト的課題の両方を発見することができた。今後は、この両方の問題を扱えるバイリンガルな人間が必要になるだろう。 以上、本稿では情報社会というものを批判的に捉えながら、しかしその中で希望を模索した。オープンガバメントというアイデアに空想的な期待を抱かず構想を掲げ実践するため、本稿では「ある何かをオープン化し、世の中の問題解決をシェアすること」こそがオープンガバメントだと提案した。今後は、このオープンガバメントのコンセプトをいかに実現するか、情報社会の仕組みをいかに活用するかが重要になるだろう。
参考文献・記事の一覧 「情報の歴史―象形文字から人工知能まで」編集工学研究所 (著), 松岡 正剛 (監修)、1996年 NTT出版 「情報の歴史を読む―世界情報文化史講義」松岡 正剛(著)、1997年 NTT出版 「情報の文明学」梅棹忠夫(著)、1999年 中央公論新社 「社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望」佐藤 俊樹 (著)」、2010年 河出書房新社 「「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会」谷本 晴樹 (著), 淵田 仁 (著), 吉野 裕介 (著), 藤沢 烈 (著), 生貝 直人 (著), イケダハヤト (著), 円堂 都司昭 (著), 西田 亮介 (編集), 塚越 健司 (編集)、2011年 春秋社 「ウェブとはすなわち現実世界の未来図である」小林 弘人 (著)、2014年 PHP研究所 「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」東 浩紀 (著)、2011年 講談社