パリ・テロ→FBプロフの論争について「日本は同調圧力の強い国ではないと思う。」

先日、ご周知の通りパリでISISによるテロがあった。 その後、注目を集めたのはまったく別のことだった。 「パリで起きたテロそのもの」よりも、 テロの後にFacebookがプロフ画像をトリコロールにするサービスをつくったり、多くの都市で(日本の東京も)、有名建造物をトリコロールにするキャンペーンが流行ったことについてをめぐる人々の考え方の違いについての情報の方が多く飛び交っている(ように思う)。

 

いつものように、自分も (何か頭に思うことがあると黙っていられないので)このことについて、思ったことをFacebookとこのブログに書いた

 

自分にとって、ハフィントンポストFacebookでもフォローしているし、SmaerNewsでも登録しているので、よく目にするメディアの一つだ。昨日や今日、ハフィントンポストのニュースは、この一連の騒動・論争についての記事が多かった。

 

ここまで盛り上がると、 なんだかメディアの論調はどうしても、 Facebookのプロフ画像変更の是非や、有名建造物のトリコロール・ライトアップの是非とか、人が読みたいと思っている記事をたくさん書くだろうと思う。 そうすると、僕がそんなことよりも重要だと思っている視点がたくさんの情報の中で埋もれてしまいそうなので、自分の書いたことを振り返る意味でも、この記事を書き残しておきたい。

 

この前の記事では、書きこぼしてしまったことについてだ。

 

日本は同調圧力の強い国じゃなくて、同調圧力に弱い人の国なんじゃないか?

 

Facebookプロフィール画像を変える人がたくさん出て、有名な都市の建造物がトリコロールに染まった。 Facebookの他にも、GoogleYouTubeAmazonのサイトでも、パリ・テロを追悼するようなデザイン変更があった。 ここで、確認しておきたいのは、 日本国内で盛んに「みんな、やるべきだ!トリコロールに変えるべきだ!」と騒ぎ立てた人はいなければ、それがいいことだ、と表明する(= 無意識的に周りにそういう影響を与えようとしている)人も多くなかったように思う。 (何人かはいたと思うけど)

 

むしろ、「あれ? ちょっと違うんじゃない?」という報道や意見表明の方が多かったように思う。

 

ただ、それでも、キャンペーンに参加する人たちはある程度の数、いた。 僕は日本人は同調圧力の強い国じゃないと思った。ここは、同調圧力に弱い人の国なんじゃないか。と。

 

誰かが同調圧力を加えていたわけじゃない。そういう集団がいた訳でもない。 (あくまでも国内という意味で) 日本人(ぼくら)が、勝手に「なんか、そうしないといけないらしい」と思っていた(そういう人が多かった)。それでも、「いいや、そうじゃないだろう」という人たちがここぞとばかりに発言し合って、メディアを動かした。

 

日本には、空気を読まないで自分の考えること、信じることを発言する人が着実に根を張っていると、喜びたい一方で、 流されやすい習性を持っている民族なんだなと改めて思った。 少なからず、自分はどちらでもある。

 

強調したいのは、日本の中に「あることを強いる」プレッシャーはないけど、誰にも命令されていないのに、集団的にそう動いてしまう危なさ、「百姓気質」が全然なくなっていないということだ。

 

「百姓気質」は、ただ流されやすいというだけじゃなくて、「深く考えない」という危なさも持っている。 深く考えない習性は、プロフ画像を変えた人を一方的に非難する性急な人々を生み出している一方で、自分の意思のないままにプロフ画像を流行に載るように変える人も生み出している。

 

ぼくが先日の投稿で批判したかったのは、プロフ画像を変えた人ではない。 意思のないままに行動したすべての人と政治的な欧米企業だ。 これが国際問題でなく自然災害だったら、ぼくもきっとプロフ画像を変えていたかもしれない。

 

ぼくはこれからもFacebookAmazonGoogleのファンでいたい。 彼らが国際問題に中立な企業でいる限り。

 

P.S. ぼくらが「世界中の都市」という言葉を使おうとしたときに、きっと中東で争いに巻き込まれている人たちの住んでいるまちを思い浮かべることはないだろう。 その時点で、ぼくたちはまだまだ悩まなくちゃいけないことが山程あるだろう。